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白昼夢のように。

02 11, 2019
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如月 月齢6


「もう春です」


数日前そう束ね綴った言葉の上へと、雪が降り重なっていく朝。


いくら季節が巡ろうとも、突然届くメッセージのように、雪は私の内に舞い戻る。


一瞬にして、景色は白昼夢のように消え去る。
一瞬にして、景色は元通りの日常を取り戻す。

けれど、覚めない夢があってもいいじゃないか、と目を閉じれば、白昼夢は続く。


もう少しだけ、夢をみていたい。
そう思わせる朝だった。





冬からそれ以上の返信はないまま、きっと今年も春はやってくる。




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火を焚く。

01 14, 2019
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睦月 月齢8


実は私、火熾しの練習をさぼっている。
随分とさぼってしまい、あれほど毎朝毎晩夢中だったキリモミ式で火をつけられる自信がなくなってしまった。

この連休、ナイフとカメラを持って出掛けた。夏から目を付けていたセイタカアワダチソウを頂きに行った。嬉しくてすぐにでも試したい気持ちを抑えこみ、まずは手でスピンさせた時に当たる部分を丁寧にナイフで軽く削がなくてはいけない。削りすぎない様に慎重に。ついでに弓ぎり式のスピンドルも削ろう。その作業をしようと落ち着く場所に移動した。日暮れも考えると作業は1時間ほどだなと思った。


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せっかくなので、小さな火を焚いた。

小さな窪みを掘り、風を読み風の入り口を作る。手のひらサイズのティピを組み立て、ポケットからファイヤースターター取り出す。火花は一瞬にして焚き火になった。

こんな小さな焚き火でも実に暖かい。夏に森で瞑想する時に蚊が気になるので時々更にミニチュアの焚き火を焚く事もある。小さな焚き火は無駄がなく全てを灰にするにも、時間の調整をするにも容易い。



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道具を造るというのは楽しいものだけれども、私はとても不器用なので思う様にいかない事が多い。ふと手をとめ森を仰ぐと、白い月が浮かんでいる。再びナイフを握ると、削りかすが焚き火にチリリと消えてゆく音や香り、煙が、私の心をくすぐる。

「おかえり、私」

思わずそう呟いた。


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私が子どもの頃、家の裏でよく焚き火をしていた。暇さえあれば「何か燃やすものない?」と火を焚き、「今日は特にないわよ」と言われると、枝を集めて焚き火をしていた。
子どもの頃は、火にあたるというよりも、ドングリを投げ込んで爆発させたり、オヤツを焼いて食べて喜んでいた。特に意味もなく、とにかく焚き火をしていた記憶がある。「子どもだけで火遊びして」などと怒られる事もない大らかな時代だった。

そして大人になった今、やはり焚き火が大好きだ。焚き火に燻された服が数日薫るのもたまらない。以前、都会の繁華街ですれ違った人から焚き火の香りがしたことがある。思わず振り返ったが、その人も香りも雑踏に消えていった。思わず追いかけたが、見つけたところでどうするって言うんだ、、、と思いとどまった事がある。

思えば、いつもどこか私の記憶の中に、焚き火は在る気がする。


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(そろそろ、終えますか)

枝をくべるのをやめてからの時間が最も好きだ。灯がスッと消え去る次の瞬間に登る一筋の煙の美しさに心奪われる。奪われても決して惜しくないセンチメンタルが空と交ざってゆく。時々息を細く長く吹きかけては、燻る熾火に宇宙の初まりを感じる。


「立つ鳥跡を濁さず」

焚き火をしたとは誰も気づかないように痕跡を消す。それが焚き火を本当に愛するものの礼儀だと思っている。立ち去り際に何度か振り返っては確認する。「ありがとう、また来るよ」と伝えながら。


吊り橋へ向かうと夕暮れが空をマゼンタ色に染めていた。手には新しい相棒を握りしめている。心まで暖かだった。




今も、焚き火の香りが時々微かにする。

やっぱり私は焚き火が好きだ。






静かな正月に。

01 02, 2019
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睦月 月齢25


年末、雪が降った。


落葉樹の枝々のひとつひとつの存在を、常緑樹の葉々のひとつひとつ存在を、丁寧になぞるかの如く、雪が伝えてくる。
朝日が広がりはじめる前の山を眺め、「今年も終わる」と思った瞬間、「今日が始まる」と言葉を塗り替えた。



手の届く範囲にある小さな幸せのひとつひとつを心から大切にすることが出来るなら、それ以上を求める事もないだろう。
流れゆく風や光の行方を知る由がないならば、ただ目の前の気配を眺め、余韻の痕跡を指なぞるだけで良い。

景色が私に何も求めてはこないように、私もまた、目の前にあるものに何も求めず、ただ共に在るだけで良い。

それは何も難しい事はないと実感した年の瀬だった。






新年、晴れ渡った。


今年は今まで無我夢中でやってきたことに白黒つける年になる。どう転ぼうが、自分の肝は座っているだろうか。
それを試されるのだと想っている。

さて、どうでるか。 恐くもあり、楽しみでもある。




今日は暖かく、ウトウトゆったりと、時間が流れてゆく。黒猫のヤブさんも白いソファーの上に丸くなり、じっと時を眺めている。
時々、夫に声をかけては、すぐにそれぞれの世界に戻る。時々、本の世界に入り込んでは、すぐにこちらの世界に戻る。を、繰り返している。


とりあえず今は、この静かな正月を慈しみたい。


今年も良い年にしたいと願いながら、森の音を聴いている。




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金木犀で桂花陳酒を。

10 14, 2018
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Osmanthus fragrans var. aurantiacus

神無月 月齢5

夜の薫りは濃い。
視覚が遠くまで効かなくなるせいか、夜の空気の重みがそうさせるのか、全ての薫りを深める。

ある夜の事。

帰宅途中、吊り橋を渡ろうとすると、フワリと甘く馨った。「あぁ、咲いたのか」と、足を止め辺りを見回せど、夜の帷に姿をくらましている。確かにこの近くにいるはず・・と目が闇に慣れるのを待つ事にした。

その瞬間、ポケットの中で携帯が鳴った。

「キンモクセイ」

ただ一言の短いメッセージだった。私は返信もせず、吊り橋を渡り家路を急いだ。


次の日、掃除をしていると、再びフワリと馨る。「窓が開いていたかしら?」と手をとめる。すると急に薫りが強まり、視界の隅にその花があることに気づいた。

金木犀が小さな薬瓶に生けてある。夫の仕業だ。

夫も夕べ、仕事帰りに吊り橋の袂で金木犀に気づいたに違いない。「いつの間に・・」クスッと笑った。



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カメラを向ける。横に置かれた薬瓶の蓋の中に落ちた、乾ききった金木犀の欠片に気づく。私には花よりも妙に愛おしく写った。


そして、生けた金木犀も萎んだ頃、「桂花陳酒を造った事があるか」と夫が聞いてきた。(そういえば去年は同じパターンで花梨だったなぁ・・)と思いながら、「ありますよ」と応えた。

花酒は焼酎漬けだと時間がかかるが、桂花陳酒のようにワインで漬ければ1週間もすれば十分試飲ができる。花を摘んで漬けるだけ。コツも何もない、と話した。

というわけで、今年は一緒に造る事になり、花摘みに出掛けた。

ところが、だ。

花が少しずつ集まってきた頃、夫が集めたものを見て、私は二度見した。そして、夫が花を摘んではいないことに気づく。聞くと、枝を揺らして落ちてくる花を集めたという。それは花の弾力を失いつつある花ばかりだった。

「花の役目を終えたものを使ってあげるのかと思ってた」と夫は言った。

時々、夫は私をハッとさせる。植物だけでなく動物への接し方を、夫は私なんかよりも遥かに感覚として知っている気がすることが多々ある。それは、その工程として正しいか間違っているかの話ではなく、薬草や野草を扱う者が次第に失いがちな、とても大切な心の話だ。

彼の無意識の言動は、私が野草や薬草、花や実などについて覚え初めの頃の感覚に引き戻すことがある。そして時に、私が「これはこうするものだ」と思ってやってきたことが、「その方法の他はないのか」という問いを投げかけられることが多々ある。

良き師をもったものだ、と私は内心思うのであった。

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近所をぐるっと散歩しながら少しずつ集めた。秋晴れの穏やかな散歩だ。
夫はその後、私の真似をして花を摘み始め、ブレンドすることにした。私は私の薬瓶に必要最小限の花を集め漬けた。そして場所を変え、夫は鴨川や銀月の庭の金木犀を集め漬け、計3種類の桂花陳酒が漬けられた。


実験である。



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それからというもの、夫は日々瓶を眺めては感動している。私も、瓶の中の小宇宙というか、手に届かない何かを瓶につめて隠し持っているような感覚にニヤケてしまう。

一週間が経ち、瓶を開けた。

ほんの一口ずつ。飲み比べ、味の違いが歴然としている事に驚いた。同じ日に同じ樹から摘み、同じお酒に漬け、同じ甘味を入れているというのに。

夫は私の造った桂花陳酒のまろやかさに驚き讃えてくれたが、私は、夫が漬けた野性味のある味の方が好みだと思った。


正しい、間違っているは元来ないのかもしれない。
大切なのは、そこに漬けられた季節そのものと、記憶の面影なのだろう。


金木犀の花が散ると、ここ京都は急に肌寒さがやってきた。紅葉も少しずつ始まり、モズの高鳴きから75日目の降霜を指折り数え、今年も秋が深まってゆく。




【金木犀の花の効能】
精神安定、リラクゼーション、炎症を鎮める、整腸作用、眼精疲労回復、解毒、利尿効果、食欲抑制効果(食欲を促す脳内物質「オレキシン」を抑制する)。

個人的には、風邪の引き初めの肩や首の凝り、凝りから来る眼球圧迫される感覚を和らげる弛緩効果を感じます。
*あくまでも個人的感覚です。


花に触れる時も、鹿に触れる時も。

09 18, 2018
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Clematis terniflora

長月 月齢7 


腕を伸ばす。
触れる。

ただそれだけのことなのに。


触れそうで触れられない。

伸ばした腕の行き場を失う。

触れられない何かと、触れてはいけない何かが、息をのんで見つめ合っていた夜の出来事。




山に生きる野生の鹿に触れることが出来たなら。
そんな話をかつて山仲間たちと良くしたものだ。

ところが、いざその時が訪れると、私は触れる事が出来ない。
それが何故なのか、自分でもわからない。



体勢を取り直し闇に消えてゆくその姿を、見えなくなって尚見送くっていた。
罪悪感を抱きながら。




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あの夏の夜に出会った鹿を思い出しては、胸が痛くなる。


あの子に出会った場所は今、センニンソウの花が満開だ。


花に触れる時も、鹿に触れる時も、同じくありたい。
命への尊厳に触れる心持ちで。



センニンソウの花が散り、銀白色の羽毛が夕暮れの柔らかな光に照らされる姿が思い浮かぶ。

花を見つめながらも、その次の季節を感じている。





私の中に、センニンソウが息づいている。
私の息に、鹿の呼吸が重なっている。


私が私となり、と同時に、私が私でなくなってゆく。




歳を重ねるとは、そういうことなのかもしれない。






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暴風雨。

09 04, 2018
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長月 月齢24

風が生ぬるい朝。

急いで片付けを済ませ、ルーペをポッケに放り込み、カメラを掴むと急ぎ足で家を出た。

台風がやってくる。その前にどうしても会っておきたかった花があった。雨が降り出すまで、と心に決めていた。

空気が肌にまとわりつく。シャッターも重くなる。目当ての花までの道のりで、あれやこれやの薬草や実が誘惑してくる。

だもの、「先を急ぎますので」と断りきれない。
なので、花まで中々辿り着けない。
なぁに、今日に限った事ではない。
なのに、「今日に限って、、」と思ってしまう。

「仕方がありますまい」と雲の流れを確認しては足を止める。


肝心の花に辿り着く頃には、風が強まり花が大きく揺れ、ピントがぶれて撮れやしない。

ひとつ大きく深呼吸。

踊る花と呼吸を合わす。私が揺れる。そうしているうちに、写真など、もうどうでもよくなってしまった。
するとポツリと雨が降り出し、我に返る。


「来る」


雨で濡れた吊り橋を渡り、家路に向かった。吊り橋を渡り切ると、そこだけ乾いている地面があった。モミジの樹が傘になっているのに気づく。その傘の下で雲が急速に流れゆくのを眺めた。

空は、劇的に変化していった。

歩き出そうとした時、そのモミジの袂に人が立っていて、同じ様に空を見上げているのに気がついた。


足元には、未成熟な銀杏の実が既に転がっていた。

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窓際に座っていると、空を飛び交う影が無数に見えた。鳥の群れかと思ったが、風に飛ばされた森の木の葉たちだった。

それは突然起こった。

この窓から見える、一番高い樹があり、暴風に大きく揺られていた。
ベリベリと大きな音を響かせて樹は倒れ落ちていった。

あまりのショックに息を飲んだ。




夕方になり、嵐は一旦落ち着いた。猿たちが大騒ぎする声が響き渡っていた。
しかし、こうしてこの文章を綴っている間に再び雨足が強まり、時折空を明らめる光が走っている。

雷雨の音に耳を傾け、言葉を探しながら窓にかろうじて写るニワトコの葉が揺れるのを見つめては、パソコンに戻って我に戻る。を繰り返している。



夏が終わる。

めまぐるしい変化が訪れた今年の夏。台風のおかげで少し身体も心も調整する時間がもてたように思える。


雨風音のリズムを聴きながら。
風の音が恐くて、泣きながら力尽きたように眠りに落ちたという男の子が、朝まで目覚める事なく過ごせますように。

そう祈っている。


そして、私のひざで黒猫のヤブが丸くなって眠ったフリをしている。

嵐の日に。


あの樹がこの窓からの景色から消えていることを、私は明日の朝目覚めて改めて思いだすのだろう。


あの樹の事が、大好きだったと。





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ひとつ、また、ひとつ、と。

06 24, 2018
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水無月 月齢10


ひとつ、また、ひとつ、と。


「今日は、開いたかしら」 
梅雨に入るか入らないかの頃のこと。ドクダミが一斉に開花する中、私はある一輪にこだわり、その花の一部始終を見届けようと足しげく通っていた。何が私をそうさせたのかは自分でもわからない。


ひとつ、また、ひとつ、と。


ドクダミの花は、白い部分が総苞片と呼ばれる器官であり、花弁ではない。中央に立ち上がる黄色い部分が、花の集合体だという。つまり、花弁は存在しない。

この白い総苞片が開くと、中から花が姿を現すというわけだ。なんたるロマンティックさ。純白でありながら、どこか艶かしい。


梅雨らしい空が続いた。 その一輪のドクダミは、他の花よりも開花が遅れていた。そして漸く総苞片が開きはじめ、4つのうちの最後の一枚、となった。

私は、あれほど待ちわびていたはずなのに、急に見守るのをやめたのだった。



・・・・・・・・



その日の晩、蛍たちが乱舞した。


今年は蛍が去年よりも早く出始めた。そして数も多かった。朝まで降り続いた雨があがり、湿気を含んだ空気が沢の流れに押され、夏の勢いに任せ上に伸びた種々な草々や、垂れ下がる樹々の青葉の間を、無数の蛍たちが光を放っていた。

無数の蛍の光を見つめながら、カジカガエルの声と沢の音に耳を傾けた。

心が、すーっと平らかになってゆくのを感じた。そして私は、あのドクダミのことを思っていた。


・・・・・・・・



それから毎晩、家路の途中、吊り橋の上で蛍を探している。肌寒い日が続いたせいか、その後は日に日に数が減っていった。その度に、あの一輪のドクダミのことが頭をよぎる。


今日は、夕焼け実に鮮やかだった。散歩に出た。
「そろそろ、よいかしら」と、私はあのドクダミに会いに行った。そこに花の姿はもうないけれど、他の草に追いやられてはいるけれど、確かにあのドクダミはそこにいた。

当たり前のことなのだけれど、それが何だかとっても嬉しかった。


当たり前が当たり前でなくなるのには、自分の意志は関係ないことも時にはあるけれど、それが当たり前だったという事実こそが、酷にも尊く、自分が今ここに在る証しと成り得るのかもしれない。


ひとつ、また、ひとつ、と。

乗り越えて、手放して、そうして得るものは、手放したもの以上のものとなる。目には見えなくとも。



月に虹がかかっている。今宵も静かに穏やかだ。




Current Moon
CURRENT MOON
プロフィール

Coo

Author:Coo
森のある暮らしを綴ったフォトエッセイ。 裏高尾、筑波山を経て、現在 京都・比叡山にて。 森の事、野草や薬草のこと、森料理、日々のあれこれなど。 森の風があなたのもとにも届きます様に。

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