海沼武史という現象。

02 25, 2017
如月 月齢28

「森で何してるの?」良く聞かれる質問だった。
「何のために毎日森に通っているの?」そう聞いてくれた人は、この人だけだった。


海沼 武史。


私にとって、一回り歳上のこの人のこと、この人との関係性を説明しようとするほど困難でナンセンスなことはない。ただ、彼との間で起こった出来事を通じて語ることはできる。

写真家であり、音楽プロデューサー。という肩書きを逸脱している男。

裏高尾は駒木野地区に住んでいた数年(8年ほど?)、私は目覚めと同時に森に通っていた。毎日毎日。数時間を森で過ごしていた。そして、当時の私が森の次に足を運んでいたのが、海沼家だった。

家から徒歩20秒ほど。2つ角を曲がると海沼家があった。私が通っていた森と沢のド真ん前にあるその家のリビングは、天上が空のオープンキッチンで日本ぽくない。規定外の大きな窓枠は、端から端まで森を浮かびだしていて、常に森と沢の音が聞こえている。


はじめて武史さんと筑紫さん(奥さん、という言葉が最も似合わない女性(ひと)だけれども、つまりはそういうひと)に出会ったのは、突然この家に押し掛けたことにはじまる。裏高尾の自家焙煎珈琲店「ふじだな」のマスターの紹介だった。きっと面白いこと教えてもらえるよと。

森の帰りに玄関の呼び鈴を鳴らす。

「はじめまして、、、足洗わせてもらってもいいですか?」そう、足の裏土だらけだったのだ。初対面で自宅のお風呂場へ直行で案内するということは私も経験がない。がしかし、海沼家ではそれを自然体で許された。

自己紹介をした覚えもない。私は、この夫婦の作品を以前から知っていた。そして、彼らも森を歩く姿を見かけていた。それだけで十分だったのかもしれない。


以来、私はこの家の呼び鈴を何度押しただろう。ピンポーン「はーい」「くぅ!」ガチャッ。ドアがあく。

その後、ドア向こうに誰が応えるかでこの先が少しだけ異なる。
筑紫さんは私と同じ目線の高さでニカーッ。「よぉー!」
武史さんは私の眼球下1/3が白目になるほどの目線の高さでムッスリ。「よぉ。」

その繰り返し。未だに変わらない。


この家で、私は大笑いし、大泣きし、大喧嘩し、この世の中に存在するありとあらゆる感情を体験した。人の内には、喜怒哀楽の他にも沢山の感情が存在することを知った。

当時私は人を全く信用しておらず、世間知らずで本当に生意気だった。時々生意気が過ぎて、武史さんや筑紫さんを激怒させることもあった。

当時の私の事を、海沼武史は自らのTwitterでこう記している。

「石井久弥子、通称Coo(くう)-。普段は「くう、あのさ...」って感じ、だね。彼女と知り合ってもう5年ぐらいになる。その間、3度ばかり喧嘩をし、その度、近所に住みながらも会わなくなり、絶縁..。やがて、彼女は風を連れ、森の芳香を辺に送りながら、ぴょこんと顔を出す。それで仲直り。」

海沼武史Twitterより)

この歳にして小学生的な関係だったわけだ。それなのに呼び鈴を鳴らすと、何もなかったかのように家に入れてくれ、お茶して笑い合った末に、「あの時はごめんね」って言ったり言わなかったり。
武史さんも武史さんでああいう人だから、離れていった人も多く、「くぅちゃんくらいだよね、あの家に変わらず出入りしてるのって」と何度となく言われた。私はどうやらマゾらしい。



ただ、海沼武史と私とを繋げていたものがいくつかあり、そのひとつが写真だった。私は、海沼武史に出会う前から森で写真を撮っていた。誰に教わることもなく、ただ漠然と撮り続けていた。ある日、いつもの様にフラッと海沼家の呼び鈴を鳴らすと、無言で扉を開けた武史さんが唐突に言った。

「くぅ、写真展やるぞ。」
「は?」
「50枚写真持ってこい。」(結果的に自分で選ぶ力もなく、200枚ほど持っていった気がするが)

こうして、私は海沼武史にプロデュースされて初の個展を開くに至ったのだった。



海沼武史は写真家でもある。世間的に見たら、師弟関係とみられたのだろう。「確実に海沼さんの影響を受けてるね」何人かに言われた。不思議なのが、それらの写真のほぼ全てが、海沼武史や彼の作品に出会う前に撮影したものだというのに。そして、そのコメントは、当時の私を妙に悔しめたのを覚えている。

その悔しさがどこから来ていたか、今ならわかる。模倣していると思われたからとか、そんな稚拙な話ではない。 この人を越える事は不可能だと知っていたからだ(越えるとか越えないとかではないのにね)。


その個展をキッカケに、私は都内でも個展を開くようになっていった。だがそれ以降、私の写真についてノータッチになった。DMが出来上がり一番に渡しに行っても、彼は私の個展には一度も来てくれたことはなかった。「行かなくてもわかるよ」そういわれた事がある。それはプレッシャーでもあり、嬉しい言葉でもあった。

ただ一度だけ、搬入に向かう朝挨拶に行くと「お前、わかってんだろうな。」と言われたことがあった。その後に続いた言葉にドキッとした。

「わかってんのか?並べ方」

数日前から私は家中に写真を貼りまくり、展示作品を選ぶまで至っても、並べる順番、間隔などに家を出るギリギリまで悩んでいた。

「音楽を、奏でるんだ。一音、ポンと。そしたら次に来る音は自然と流れ出す。」

この人は、どうしてわかるんだろう。私がその時に必要としている言葉(イメージ)が。少ない言葉でも私が理解できる言葉選びで。 私の中で全てが決まった。家を出る時に考えていた並びとは全く違う並びになったのは言うまでもない。





海沼武史の写真は、静けさの中に在る「無音」の美しさを感じる。無音とは「音が無い」のではなく、「無い音が在る」のだと気づかされる。
森や風景に限らず、人物においても、ひとりひとりの人間が持つ「無音」の違いを感じさせる。その違いこそが、その人であらんことの証しであり、「だからこそこの人は美しいのだ」と伝えてくる。

彼の写真は、その「無音」から「在音」が流れ奏で出す。眼で音を聞いている自分に気づく。


海沼武史の写真には誇張が全く存在しない。むしろ、被写体を前に一度瞼をそっと閉じ、その被写体のもつトーンを一旦大地に返し(託し、といった方が近いか)、再び瞼を開いた時に残されているものだけが映し出されているかのようだ。


なんて、彼の写真について私が語る事自体、生意気極まりない。そんな生意気もきっと彼なら許してくれるだろうが。


彼は私に対しても、そのファインダー越しの眼差しで接してくる。つまり、言葉や着込んでいるものではないところを見つめている。それ故に、彼との会話で難しい言葉を使う必要もないし、「私」でいてよいのだ。寧ろ、「私」でいなくては一緒にはいられないのだ。何故なら時に恐ろしくなるほど、彼は人を見透かしているのだから。

一回りも歳上で、本来世間的には「師」的な存在なのに、私は海沼武史に対して常にタメ語だ。それは私にとって、最上級の尊敬の念を示している。



ところで、海沼武史は私に写真のテクニックを教えてくれた事は一度たりともない。私は、彼が撮影している姿を実際に森で見た事もない。彼はカメラやレンズに対するこだわりが全くなく、当時は掌サイズのコンパクトカメラをポケットに潜め森を歩いていた。「だって重いじゃん」と。 そして彼には物への「執着」というものが一切ない。私がフィルム現像プリントをはじめたいと話した時も、「これもってけ」と機材を一式持たせてくれた。


彼自身こだわりがないのかもしれないと思っていたのだけれど、そういうことだけではないと最近になって理解するようになった。彼は写真に対しても執着がないのだ。写真を自らが撮っているという感覚ではいないからだろうか。

以前、彼は言った。「シャッターを切った瞬間、手放してるからさ、そんなもん」
その意味が時を越えて、そういうことか、と感じるようになった。


私は一度も海沼武史と並んで森を歩いた事がない。ということは、彼もまた私が森でどうシャッターを刻んでいるのかを知らない。ただ、森で行き違うと「眼」で挨拶を交わす。その一瞬で全て見透かされる。だから恐いんだ。だけど愛があるんだ。だから私はこの男(ひと)が嫌いで大好きなのだ。



海沼武史は、人生において人を信頼することが一度もなかった私が、はじめて信頼した人間である。何かがそうさせたとかではない。ただ、海沼家で共に過ごした時間が揺蕩うように私の根底に今も流れていて、海沼武史もまた、森に通い続けた者だけが知ることのできる「ヒカリ」を知っている者だからなのかもしれない。



「石井久弥子はいわゆる写真家ではないよ」

彼は私のはじめての個展「森語で語らう」の宣伝でそう言い放った。その言葉が、今も私の写真活動を支え続けている。






海沼武史の動画が公開になりました。なーんか随分と雰囲気が柔らかくなって、目尻がたれたな、、、。

小難しくて恐い人というイメージが先行しがちな武史さんだけれど、私の中では、動画最後の最後で踊ってるお茶目なオヤジが彼の基本姿勢だと思っている。

何のために森に通うのか。

先日久々に海沼家に遊びにいったところ、「写真続けてる?」と聞かれ、撮り続けてはいるけれど、個展やネットで作品を公開することに興味がなくなった事を話すと、写真を人に見せる事は、それを見せてくれた自然への恩返しなんだよ、と言われてハッとした。

このブログも大分そこから外れたな、と。
少しずつ、また、ね。と思う。






何でもない様で、何かある、そんな光景に。

01 29, 2014
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睦月 月齢18

それはある朝の事でした。

フィルム写真の写真展を2月に控え、連日暗室入り。

灯油が切れて、現像液の温度がどんどん下がっちゃうものだから、諦めて車を走らせる。

フロントガラスの氷の結晶がとけた頃、朝焼けが広がり出し、心を焼いた。

この日は満月。夜な夜な森に行けるために、もうひと頑張りするのです。

あぁ、早く夜にならないかな、、、お月さんに会いたいなぁって想いながら家路につくと、何でも無い光景が、私にとっては実に素敵にみえた。

こんな時にもカメラを持っている自分。すっかり、そうね、すっかりねぇ、、、って。しみじみ。

写真写真で時が過ぎてゆく、そんな気がした朝でした。

たまにはそんな呟きを。

月とウサギと。

03 07, 2013
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弥生 月齢24

夢の様な時の流れだった土佐山での3日間を終え、裏高尾の森へ帰還。
郵便受けを開けると一通のお手紙。優しい字が並ぶ。

「ただいま」

そう思わせてくれたのは、パレット冒険隊のメンバーの暖かな心持ちでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・

お返事をかきました。彼女のイメージぴったりな、ウサギさんのカードに。

「あれ?そういえば・・・」
かいている途中で気づきました。

「小学生最後のお誕生日、おめでとう」
私のお気に入りの、お月様のカードに。

刻一刻と満ち欠けを繰り返し、そして今が過去となり、その過去が未来に繋がるわけで。
それはきっとね、日々の出会う出来事に対して、気持ちを時には膨らませたり、時にはしぼませたり・・・

月の満ち欠けと同じなのかなって思うのです。

でもね、影で見えない部分にも、常に光が確かに寄り添っていて、共に在るのですよ。

これから始まる新しい生活の中で、乗り越えなきゃいけない事に直面した時や、落ち込む事や辛い事があったとしても、そんな風に捉えられる人になれたらいいよね。

そんなことを手紙に綴ったわけではありませんが、これは、彼女に伝えたい事であると同時に、私自身へのエールでもあるわけです。


月とウサギと。


ありがとう。そんなキミに、いつも一緒に冒険している森で出会った、とっておきの羽根を添えておくらせてね。


あの鳥の羽根を、キミに。

07 10, 2012
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文月 月齢20日

朝が来て、目が覚めて、カーテンを開けて、少しの水を口に含み、カメラと麻の帽子だけもって出かけるのです。

森へ。

麻の帽子の中に入れたゴロゴロ未成熟のクルミと共に家にもどったならば、森の空気をまとったまま、ペンを取り出し、引き出しから あの子にぴったりなレターセットを探して、綴るのです。

3枚綴ったらペンを置き、窓から森を眺め、想うのです。

ねぇ、一番伝えたい事は、言葉にできなくて。でもきっと、3枚も綴らなくても、一言で済んでしまうような気もして。

つまりは、「また森で」という事だけなのだけれど・・・

大人たちの心配が空回りして、時として子どもたちの羽根を閉じさせてしまう事があります。

私はそれでも、「また森で」とだけ、どうか伝えさせて下さい。

再び羽ばたけるように、羽根を贈ります。
私のとっておき宝物の羽根を贈るね。

傷ついた羽根でも、この羽根の持ち主は森を飛び回っていったんだ。

そのメディスンを、キミにも。

また森で。
想いを込めて。

桜、咲く。

04 10, 2012
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卯月 月齢18日

青空に映え、桜咲く。

入学を迎えたみんな、おめでとう。心からおめでとう。

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今日、旅立っていったふたりへ。

大地と背中合わせに青く澄み渡った空を見上げ、私はお願いしていました。

無事にふたりを、再び向こうへ届けておくれ。
無事にふたりを、再びこちらに届けておくれ。

ねぇ、J。
危険を冒してまで手に入れてきてくれたガマのフワフワ、試してみるね。また報告するね。

ねぇ、Oさん。
私の心、お見通しだったんでしょう? 背中を押してくれてありがとう。うん、心地よいペースで始めます。
ううん、きっと、もう始まってます。

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みんな、みんな、「またね。また森で。」


Current Moon
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プロフィール

Author:Coo
森のある暮らし「ことり〜cotori〜」主宰。 三日月生まれ。 森と写真と黒猫と美味しいものと。 Coo、時々、久弥子。

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