想う、けれど語れないということ。
10 20, 2011
神無月 月齢22日
「台風の傷痕」と人は呼ぶけれど、私の目には、それはとてつもない優しさと、ある種の憧れが映ります。
「立派な樹を失ったね」と人は悲しがるけれど、私の目の前には未だ確かに森の一部として変わらずいます。
「お疲れ様」と人は声をかけるけれど、私の心には、ここから始まった森の役割を担うものの生命力を感じます。
植物は種として大地に着地し、実を横たえることから始まり、大地に垂直に育ち、やがて森そのものとなり、そしていつかは大地に再び横たわることで、大地そのものになります。
時々、想うことがあります。
私の身体もそうであったことを。そしてそうであろうことを。
「死」を想う時、「生」を想わずにはいられないのと同じように、この森を、そして私自身をも想うのです。
「生」には「死」が、「死」には「生」が、共にあるという限りない優しい関係性のことを。
それらについて想うことはできても、それらについて語れはしない自分に、「それでいいんだよ」と話しかける朝の森散歩。
「ぼく、お外で遊べないの」と笑顔を見せた、幼い男の子がいました。
「死ぬってどういうこと?」と問うてきた、幼い男の子がいました。
その真っすぐな瞳と心に対して、何も応えてあげられなかった15年前の自分の痕跡が、今も心の奥深くに消えぬままあります。
けれど、この森に通ううちに、「それで良かったんじゃない?」と想うようになりました。
森は私の偉大な先生です。
そして、子どもたちもまた、私の偉大な先生です。
そして、今日も穏やかな一日です。
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