生の奇跡と、死への軌跡。

06 20, 2016
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水無月 満月

生まれたてのその仔は、鼻に出産の名残りが暫くついたままだった。

キミは、初めての呼吸を覚えているかい?

キミにとって、初めての空気ってどんなだったのだい?



実は、この仔にはきょうだいがいた。

私が駆けつけた時には、固くなった小さな身体が丸まるようにして胎盤の側に横たわっていた。


産まれ息吹く命と、産まれても絶える命と。

私はその固くなった身体を一本の木の下に埋めながら、その紙一重のものごとを考えていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それから丁度一ヶ月経とうとしていた一昨日。

もうひとつ別の命が横たわり終わりを告げていた。

まだ大人と子どもの狭間を生きていたキミの身体は、ずっしりと重く、まだ暖かかった。

その横で、仔メェメは、無邪気に飛び跳ねては遊んでほしさに、何度も何度も、息絶えたその身体や私の背中によじ登っていた。

あまりにも急な出来事、あまりにも無惨な姿に、
私はその死を未だ受け入れられずにいる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この世には、

生きるだとか、死ぬだとか、

産まれる前に生となり得ぬ命だとか、

そんなこんなが同じく在って、

本来そのどちらにも境界線を設けるものではないはずだ。

生の奇跡と、死への軌跡。

本来そのどちらも同様に美しいものであるはずだ。


なのに、その命に触れたことで、その魂に意味付けをしてしまう。

防げた死、防ぎようもなかった死、などと分類したり、
もう少し早くその場に立ち寄れていたら、などと自分を責めもする。

こんなことになるのだったら、「またね」の後にもう一度抱きしめておくべきだった、などと後悔ばかりがつきまとう。


そんなことをしたって、死は生を齎さないというのに。



自分が生きている限り、死とは、いつも他人事だ。
その者の物語の欠片だ。

だが、そうした死に触れて流した涙や感情は、自分の生に刻まれる。


悲しさや悔しさ、後悔や残像を焼き付け、

人はどこかに死をもっている。

日々の繰り返しの中で忘れていようとも、

人はどこかに、その死(他者の死)と、この死(やってくるであろう自ずの死)をもっている。

だからこそ、その生と、この生が、繋がりをもつのだろうか。

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キミの生と、私の生が出会った場所で。

だから余計に、私はキミのことを愛おしく想っている。



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Author:Coo
森のある暮らしを綴ったフォトエッセイ。 裏高尾、筑波山を経て、現在 京都・比叡山にて。 夫の樹さん、黒猫のヤブさんと私Cooこと久弥子、ふたりと1匹、森暮らし。 森の事、野草や薬草のこと、森料理、日々のあれこれ、など。 森の風があなたのもとにも届きます様に。

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