ガーデナーたちのレシピ。

09 04, 2017
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長月 月齢13

「ミントが育ち過ぎてしまったまま、夏が終わってしまおうとしているから・・・」

サングリアを仕込む。


もうかれこれ15年以上前の話になるのだが、私がイギリスのガーデンで庭師として働いていた頃のこと。バラが咲く頃になるとガーデンパーティーが連日のように開かれていた。イギリスではサマータイムにあたり、日が沈むのが遅い。夜の10時くらいで日が暮れるので、平日でも夕方から呑気にパーティーが開かれていた。

敷地内にいくつものテーマ別の庭があり、それぞれの庭に専属の庭師がついていた。私が担当していたガーデンは一般に公開されておらず、外から覗く事すらできないものだった。そして、年間通してもわずか2ヶ月ほどしか庭師以外の人が入ってくることはない、所謂「秘密の庭」だった。それも、このガーデンパーティーのためにあるのではないかと思うほどの秘密っぷりだった。

担当のガーデンであっても、私にパーティが開かれる日が知らされているわけではなく、4時くらいになるとキャンティーンからシャンパンやグラス、軽食などが運び込まれて来るので「あぁ、今日もなのね」とわかる。

彼らは残業などという言葉は存在しないのではないかと思う働き方をしているため、5時の鐘がガーデンに響き渡ると、マスターたちや関係者たちが普段は鍵がかかって閉ざされている門から次々に入って来てガーデンパーティーが始まる。その時間になる頃には私も仕事上がりなので、ガーデナーたちの小屋に戻るためガーデンを後にする。


花が咲き誇るこの季節は芝も伸びるのもあってとても忙しく、たったひとりで広い広い庭の手入れをしていたため、夕方にはクタクタだった。小屋に戻るとお茶を飲み、その日の庭について軽くヘッドガーデナーに報告し、図鑑や本で調べごとをしながら先輩たちと他愛もない話をして、自転車をこいで家に帰る。そんな日々だった。


ガーデナーたちはガーデンパーティーをしないかというとそうではなかった。ただ、私たちには「じゃぁ何日にパーティーをしましょう」という言い合わせはない。その代わり、誰からともなく始まる。

「今日、あのキノコが採れたから炒めて飲まないかい?」
「セージを刈り込んだから、ソーセージ仕込みついでに飲まない?」
「ローズマリーの花が咲いちゃう前にと思って鴨を捕まえたから(本当は捕まえていない、ブラックジョークだ)、ローストして飲まない?」
「ナーサリーのミントの剪定をしたから、ガーデンサラダとサングリアにしない?」

そんな庭のタイミングと共に在るレシピというのが実にガーデナーらしく、そしてそれぞれの庭の成長を分かち合う喜びというのが、私は大好きだった。

そして、小屋から出てカラッとした天候の夕を過ごす。誰も来ない庭の片隅で、その庭で育ったハーブを頬張りお酒を交わす。他愛もない話に笑い転げ、心地の良い酔いに包み込まれる。クタクタだったはずの身体もすっかり英気を取り戻し一日を終えるのだった。今振り返ると、本当に良く働き、働いた身体を良く癒した日々だった。


サングリアにミントを添える。
それは、そんなガーデナーたちによるガーデンのための密やかなガーデンパーティーで覚えた味だ。忘れる事のできない味なのだ。



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にしても、ミントが育ち過ぎてしまった。花をつけてしまったので、種を採る方向でも考えていた。
とその前に、レモンとビネガーのドレッシングを合えたトマトのサラダにもした。それから、ミントティ、ミントシロップも作って、、、と頭の中がミントレシピで満たされてくると、「・・・あれ?ミント、足りるかしら?」となるから不思議だ。


冷やしたサングリアを飲みながら、あの頃を思い出していた。夏が終わり、ガーデンパーティーも次第に開催されなくなってきた担当の庭の片隅に置かれたベンチに腰をかけ、River Camを眺めながら、ただボーーーッと今日を想い明日を描くだけで、遠い過去もずっと先の未来も考える必要がなかった頃の事を。そして時を越えて今、大変だった事でさえも全て自分の糧となり良い思い出に変換されている事を。


あの感覚を思い出すだけで、私はそんな風に生きていけるのだという根拠のない自信を覚えることが出来る。それは、あの庭で過ごした時間と、ガーデンの先輩たちからもらったギフトだと今も変わらず想っている。


Film モノクロ 2013 スキャン源_


追記:「ガーデナーによるガーデンのためのサングリア」レシピ

・果実(オレンジ、レモン、リンゴ、パイナップル、バナナ、何でも良い)
・安いワイン(テーブルワイン程度の安物が合う)
・フレッシュなミント

適当である。いかに適当にカットし、適当にワインを注ぎ、適当にミントを摘んで添える。
*大切なのは、ミントがフレッシュであるということ。
*ミントの葉は飲みながらちぎったり、かじる事で爽やかさが更に広がる上に、香りによって脳神経を通じ効能も向上する。
*「適当」とは「適度」である。
*パイナップルジュースを加えると更に飲みやすく、酵素により悪酔いしにくい。お好みで。



ミントの効能:
疲労回復、鎮痛、冷え性改善、安眠効果、食べ過ぎ飲み過ぎの胃腸の消化を助ける、精神的な緊張をほぐす、リラックス効果、などなど。





葛の花が咲きはじめたので。

08 29, 2017
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葉月 月齢7

沢で涼む。
心を洗う。

沢の音に耳を浸す。
森の光に身を晒す。


鹿の足跡が残されている。
そこに2本の指を重ねる。

微かに鹿の香りを感じる。
微かに暖かな温度を感じる。

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ふと我に返ると、南天の花が揺れていた。

それはある暑い日のことだった。
その日のことを私は、何となく忘れられずにいる。

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京都の夏も落ち着こうとしている。
黒猫のヤブさんの羽毛は未だに抜け続けている。ここまで夏を諦めなかったのか、ここに来て夏を手放したのかは私にはわからない。自分でコントロールできるものと、できないものがヤブさんにもあるのかもしれない。

(ヤブさん、夏が終わるよ。夏も終わるんだよ。)

私はもう暫くは沢に涼みにゆくけれど、葛の花が咲きはじめたのだから、新しい秋を迎える心持ちで出かけてゆくだろう。

秋の初まりは、いつもどこかノスタルジックで、過ごした夏を振り返る。


もうそんな季節。







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送り火に想うこと。

08 16, 2017
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葉月 月齢24

大きな花火をはじめて見たのは、6歳くらいだったろうか。家族で新潟の小千谷まで花火を見に行った事を覚えている。夜空一面を昼間にかえるかと思うほどの花火だった。

道の途中、私は側溝に落ち脛を大きく擦りむいてしまったのだが、はじめてみる光景にズキズキする足の痛みをも忘れて夢中に空を見上げていた。帰り道になって怪我をしている事を思い出し、急に痛くなって父に肩車してもらったことを今でも思い出す。「雪国の側溝は深い」という学び(確かかどうかはさておき)を得たのも花火大会の思い出のひとつとして忘れられない。

父は一年で元日しか家業を休みにしない人だった。その父が休みをつくり花火大会に連れてってくれたのは何故だったのか、今となっては知る余地もない。

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花火が開きかける瞬間の初めの輪が美しい。いつくるかわからない、その瞬間を待つあの感覚がとても好きだ。

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全て開き切った花びらは、複雑に光りを混じらせ踊る。

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そして、花火がチリチリに去る間際は実に美しい。一瞬で闇を追いやっておいて、いとも簡単に光りを手放すところあたりがにくい。

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花火は元々お盆にお迎えしたご先祖様を見送る送り火だったという。だから私は花火大会の時、花火を見ては空の天上を見上げる。
そして想い祈る。


今宵、京都は五山送り火だった。

朝食のパンを買うついでに街まで出た。大文字の送り火が灯ると、山が大きく浮き上がるかの様に存在感を増した。
私は空を見上げ父を想った。


7月末の父の命日以来、父のことが要所要所で思い浮かんでいた。8月に入り、父の写真や空に向かって相談する事が増えた(もちろん答えが返ってくるわけはなく、ただ話を聞いてもらっているだけなのだが)。

今年のお盆は、妙に父を近くに感じていた。何故かはわからないフリをして、何故かわかっている気もする。私が父をあちらの世界に送ったあの日に出会ったものがある。それは、この時期の庭に咲く薬草の香りと、深く繊細な音色だった。

その香りや音色を通じて、大切な人の死はただ悲しむものではなく、共に重ねた時を慈しむものであると父が最期に伝えてくれようとした計らいだったように想えてならない。


送り火を見つめながら、私はその香りと音色を鮮明に体感した。そして父に感謝した。




電車が混む前に家路に着いた。叡電は混雑を知らない素振りで走り出した。時折、車窓から大文字の送り火が見えた。修学院に着く頃、やや終わりを予感させる妙法の送り火も見送る事ができた。

山に戻り、吊り橋を渡る。吊り橋の真ん中で空を見上げると星が煌々と輝いていた。

川の音にかき消され気づかなかったのであろう2頭の鹿が吊り橋の下からこちらを見上げていた。ゆったりと走り去っていくのを見送ると、吊り橋を渡り切って家についた。


花火や送り火が美しいだけでなく、どこか憂いを秘めているように感じるのは、夏の終わりを予感させるからだけでなく、きっと自分の内に流れる血に触れ、今は亡き大切な人たちと繋げてくれるものだからなのかもしれない。


送り火に見送った夜、秋の虫たちの音色が微かに響いている。デスクトップの隣に置かれた父の写真立てに時折目を移しながら言葉を綴っている。

少しずつ秋を感じるようになった夜。今夜もとても静かな夜を迎えている。




嵐の立秋に。

08 07, 2017
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葉月 月齢14

目が覚めると雨が降っていた。いつもよりも涼やかな朝だった。

今日は嵐がやってくる。だから今日はラジオをつけずに森の音を聞いている。ヒグラシが羽を鳴らしている。今日は薄暗いからだろう。ヒグラシの羽音が昼を過ぎても止む事はなく、森に響くミンミンゼミやアブラゼミの音を微かにさせていた。

私はヒグラシが好きだ。雄の羽根の色が好きだ。雌の透明感も好きだ。そして、一匹が鳴き出すと追うかの如く一斉に鳴き出し、そしてフェードアウトする。を、くりかえす。その波が好きだ。


その息継ぎのような「間」に、生きることの美しさを感じる。 嵐にも「間」がある。これからやってくるものをより強く五感で受け取らせようとする「間」である。


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そして嵐がやってきた。私は森へ出かけた。

嵐の森は唄う。このブログでも何度かそう書いた。どんな唄なのか上手く言葉にはできない。山にいて地震がやってくる直前にも山は唄う。それはもっとわかりやすく「あ、来る」とわかる。それとこれとは似ているのだけれど少し違う。

嵐の森唄は、耳で聴こえるものではない。嵐が唄い、森も唄う。そして命が震える。それは、はじめて龍に触れた時の感覚に似ている。


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雨に打たれ、空っぽになった。

そして今、パソコンに向かいながらも、時折森の唄を感じる度に手を停め、闇に包まれゆこうとする嵐の森を窓越しに見つめては、光りが差した空を駆け上がる無数の龍を想い描いている。



今日は立秋。嵐が秋を連れてくる。
明日は満月。闇に光りが灯る。


この狭く広い世界の中で。

蝉たちの羽音とやってくる秋、ほんの短い森の唄や山の唄。長く続く闇と月の光り。今も色褪せずにある想いや消えない痛み。そんな嵐と「間」を慈しみながら、人は生きていけるものなのかもしれない。


そんなことを、嵐の夜に、考えている。
とても静かな夜に。









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赤紫蘇畑とシロップ作りと。

08 01, 2017
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葉月 月齢9

6月の末頃から、山に囲まれた平らな里に、赤紫蘇の絨毯が広がる。大原の緑豊かな景色に、赤紫蘇の深い色が際立ち目を引く。大原の特産でもある赤紫蘇。美しい光景である。

それは、7月のはじめのこと。

朝市に寄る前に少し散歩をしていた。いつもの如く、私は写真を撮り始めるとあまり動かず地面に突っ伏している。いつもの如く、夫は景色の向こうに豆粒ほどの大きさで景色に溶け込んでいる。

いつもの休日だった。

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ふら〜、っとあっちにいって、ふら〜っと戻ってくる。何を求めるでもなく。何をするでもなく。その深い意味のない行動をカメラ越しに追うのが私の趣味でもある。

が、この日は戻ってくる姿に、いつもにない何かがあるのに気づく。
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まるで、この景色を相手に指揮しているかのようだ。

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ご機嫌である。

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ご機嫌なのは私も同じ。というのも、里の駅の市では、つきたてのお餅が出来上がる時間が近づいていたのだ。イソイソと市に向かう。お餅を頬張り、野菜を選びにゆく。大原の農家「音吹畑」さんの野菜が売り切れていないことに一安心。レジに並ぶとその横で、枝付きの赤紫蘇がボワッと大きな束で売られている。

「折角だから、久しぶりに作りましょうかね」

新聞紙にくるんだ赤紫蘇の株は、まるで大きな花束の様で、何だか妙に心ウキウキ。(あら、私も女性らしいじゃないのん)と思うのだけれど、食と直結しているゆえのウキウキが8割り強であることは言うまでもない。


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というわけで、赤紫蘇シロップを。この色にキュンとする。(あら、私も女性らしいじゃないのん)と思うけれど、、、以下同文。

赤紫蘇作りで面白いのは、煮出していくと濁った茶色の液になるのだが、そこに酸(クエン酸を使うらしいが、私はレモン汁)を加える途端に、ふわーーっとこの鮮やかな赤ピンク色になるところだ。その瞬間は、まるで魔法使いにでもなったかのようで、ニシシとなる。

赤紫蘇の栄養は実に沢山あるけれど、効能として抗酸化作用に優れていて、疲労回復だけでなく、夏風邪予防やシミ予防にまでなると言われている。食欲増進、整腸作用もあり、つまり、真夏のドリンクとしてもってこいなわけだ。

シロップの濃度を濃いめにつくると、発酵することなく保存が長く効く。多く作った場合、冷凍してしまえば良い。

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気泡の入ったグラスに氷を入れ、シロップを注ぐと、夢心地になる。
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といいつつ、実は今回失敗したのである。目分量を良い事に、保存が効いた方がいいから、、と砂糖を入れ過ぎたのだ。
水やソーダで割っても甘すぎたとしても、ガッカリせずに。レモン汁などを入れると爽やかに美味しく頂ける。

我が家は、義母にもらった柚子酢(酢といっても、酢は入っておらず、柚子の原液)が救世主となった。レモンよりも更にサッパリ。実に美味しい。柚子酢を注いだ時の赤とクリーム色の2層がまた美しい。


にしても、毎日暑い日が続きます。ヤブさんは何かにつけて、私の視界の先の方でデローーーン。毛皮だものね。お気の毒に、、、と思ってピントを移すと、、、
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何なの、そのポーズは。
ヤブさんは赤紫蘇ジュースなしでも、京都の暑さも平気そうです。

そうこうしていたら、あと2杯分のシロップを残すのみに。先週末、通りすがりに未だ赤紫蘇畑健在を見かけたので、あと一回はシロップ作ろうと思っている。


蝉とヒグラシの大合唱が心に響く。そんな京都の夏の夕に。
皆様、暑中お見舞い申し上げます。






梅肉エキスを携えて。

07 12, 2017
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文月 月齢18

「今年は梅肉エキスを作ろうと思っているの。」

と宣言していたのにすっかり忘れていた。私は梅雨が好きだ。なのに、毎年体調を壊す。今年は意外にも元気だったので油断をしていたら、どうやら胃腸の調子がよろしくない。そういえば梅肉エキス作るつもりだったっけ、と思い出す。と、その頃には既に梅の実のシーズンが終わろうとしているではないか。そういえばあそこに梅の木が、と出かける。2、3粒しか残っていない。を、繰り返す。仕方ありますまい、と諦めた。


その次の日、森から遠回りして帰っていると、大きな青い梅がか細い枝を撓らせているではないか。嬉しくて心の中の私がはしゃぐ。足元に大きなキリの葉が一枚落ちている。その用意されたかのような偶然にまたはしゃぐ。ひとつ、またひとつと包んでゆく。なんて立派な梅だろう。

吊り橋を渡り、家に着く。瓶を探そうと夫作の蔓カゴにとりあえず入れた。妙にシックリきたので、その日は眺めるだけにした。

明くる日、梅肉エキス作りにとりかかる。梅肉を摩りおろす。茶巾で絞って液をとる。煮詰める。ただそれだけ。誰にでも作れる簡単な工程である。けれどもとにかく時間と労力がかかる。市販の梅肉エキスが少量でアホみたいに高価なわけに納得する。


鍋に入った梅の汁を混ぜながら煮詰める。煮詰める。煮詰める、、、を繰り返す。途中で不安になってくる。「液体が全て蒸発して何ものこらないのでは、、、」と疑いたくなる。「いやいや、きっと大丈夫、、、」と信じて煮詰める、を続けて小1時間ほど。徐々に色が緑から茶色、そして焦げ茶に変わり、飴状になってきてはじめて、全てが報われた想いでホッとする。



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1.5キロ程はあったであろう梅が、これっぽっちになった。梅肉エキスは一日に小指の爪ほども舐めれば十分。これでも暫くの間はお世話になれる。早速我が家にある一番小さなスプーンで掬って舐めてみる。

思わず顔中のパーツが一点に大集合する(かのイメージ)。体中を梅のエキスが走り抜けてゆく。この酸っぱさは梅干しの類を越えている。「効くーーっ!」と一声。美味しい。胃の辺りが暖かくなる。後味がなんとも爽やかに優しい。

私はかつて市販の梅肉エキスは味が好きになれなかったが、薬と思って舐めていた。だもんで続かなかった。梅肉エキスはキチンと保存されれば何年ももつらしい。5年くらいからまろやかになるという。とはいえ、この量では来年までに使い切ってしまうだろう。


梅肉エキスは昔から家庭の万能薬とされている。胃腸だけでなく、疲労回復、解毒作用、鎮痛作用、血行促進から風邪や喉の痛み、肌あれなどにも良いとされ、極少量を水で薄めて湿布すると湿疹や水虫にも効くという。インフルエンザ予防にも良いという話もある。つまり、年間通してかかりやすい諸症状ということ。民間療法なので治療というよりも予防として用いるのが良いかもしれない。


梅肉エキスを思い出しては舐め舐め。今年の梅雨は体調を大きく崩す事なく過ごせそうだ。



そうこうしていた先週末、「あれ?これは梅雨明け??」と感じた。私の中で梅雨明けのサイン(空気の変化というか何というか)があって、それが現れたのだ。「まさか、ちょっと早いでしょうに」と思うのだけれど、さてさて、いかがなものか。

夕べ、夫が入道雲になりかけの雲に出会ったと嬉しそうに話していた。夫が入道雲を追いかけて旅に出かける季節が始まるのも近い。

「京都の夏はまだまだこれから。本当に気をつけた方がいいよ」と話す人話す人口々に脅される今日この頃。いずれにしても、夏バテ防止の梅肉エキスがあるのだから、少し心強い。とはいえ、私にとって未体験の京都の夏に、ちょびっとビクビク、そしてワクワクしている。


さぁ、梅肉エキスを携えて、夏よ、ようこそ。







祇園さんと七夕の笹と、餅は餅屋のお話と。

07 11, 2017
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文月 月齢17

今にも降り出しそうな空を仰ぎ、私は寺町通商店街のアーケードへ足早に入った。祇園祭が初まり、京都市内はコンチキチンとお囃子が流れている。斯く言う私も長刀鉾の稚児舞いを一目見ようと、街での用事を済ませ四条烏丸に向かっていたのだった。

行き交う人々が手に何やら緑色して揺れるものを持っている。


笹だ。「あぁ、七夕は明後日か」と気づくのに少し時間がかかった。というのも、歳上の男性ばかりが笹を手にしていたせいかもしれない。そのシチュエーションは、笹=七夕、つまり色鮮やかな短冊をイメージしにくかった。


「七夕さんにどうぞ」

商店街で配られていた笹を有り難く頂いた。嬉しくなって歩くスピードが緩んだ。稚児舞いを撮影するには少々邪魔になるかしらとふと思ったけれど、笹の香りが爽やかで、そんなことはどうでも良くなった。


稚児舞いが始まると同時に雨が降り出した。雨の中、お稚児さんが舞う姿を観客の後ろの方で見守るお稚児さん役の男の子のお母さんの姿があった。今にも涙がこぼれそうな表情で真っすぐに舞いを見つめていた。その美しい姿にはとても心惹かれるものがあった。

こうして毎年受け継がれて来た歴史ある祭り事に、こんな日常の片隅で触れられるとは。京都の暮らしは面白い。そして贅沢だ。



帰り際、出町柳駅から川端通を背に徒歩1分ほど奥にある玉子屋さんに立ち寄った。おじいちゃんとおばあちゃんふたりで営んでいるこの店の玉子は、本当に美味しい。黄身の色が濃いものと、私の好きなレモン色の玉子と置いている。5個で80円。個人商店なのにこの安さ。心配になる。だから私は多めに買う。とは言っても二人暮らしだから10個。160円。終わったらまたすぐに来ようと心に誓う。

おじいちゃんとおばあちゃんがこの店をはじめたのは、昭和25年。「こんな小っさな店やけど、もう68年。あんた生まれてないどころの話ちゃうやろ。」と笑う。

他愛ない話を交わしていると、私が笹を手にしているのに気づく。「そーんな繊細な笹、見た事ないわ。どこで取ってきよったん?」と聞かれる。「いやいや、配ってたんですよ、寺町で」と答えると、ふたりは笹をサワサワ「ディケアのとこで短冊書いたけど、もっと大っきくてな、、なんちゅーか、、」「繊細じゃない?」と私が言うと、ふたりして口々に「そうそう」と大きく頷く。

「なんて種類の笹やろか」と聞かれて「はてー、なんでしょねぇ」と一緒に考え込む。笹か、、全然知らないなぁ。宿題もらった気持ちで嬉しくなった。「また来るね」と言うと、「ほんまに?おおきに。ほな、それまで生きてななぁ」と笑う。


私が京都に越して来て一番変わったのは、意外にも、森以外に街にも好んで出かける様になったことである。そして特に買い物の仕方に変化が現れている。

週1回ほどはスーパーにも行くけれど、野菜買うならあの市場のあの農家さん。果物買うならあの八百屋、漬け物買うならあの漬け物屋、厚揚げはあの豆腐屋、大福はあの和菓子屋。便箋はあの和紙屋かあの本屋、封筒はあの封筒屋。古本みるならあの本屋、タワシはあのタワシ屋で、、、と「餅は餅屋」になりつつある。それは頑張ってそうしているのではなく、自然とそうなった。何故なら安いから、そして確実に良い事がわかっているから。迷わなくて良いとはこんなにも楽か、と思う。交通費が数百円かかっても、京都の街は意外と小さいから、徒歩範囲で大概揃う。


「自給自足」やその延長線上の「丁寧な暮らし」も良いけれど、この「餅は餅屋」がずっと続いている京都の街の在り方も、真面目に丁寧な仕事をしている人からお金と引き換えに手に入れられることも、私は同じくらい尊いよね、と思う。

どちらにしても、その人にとって尊いと感じるものをひとつ、またひとつと増やしてゆける暮らしはちょっと贅沢だなと思う。
 
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家に帰り、玉子を取り出すと、産毛がついていた。そんな些細なことが何だか妙に嬉しい。

笹は、黒猫のヤブさんがシャリシャリ食べては毛玉を吐くのにも大活躍してくれた。肝心な七夕の短冊に願い事を吊るすのをすっかり忘れてしまったけれど、、、部屋の空気を少し軽やかにしてくれた、そんな気がした。


「京都の夏らしい暑さってこれかしら」と、市内に住む友人とメッセージを交わした今日。

カラカラになった笹の枝が気になり、「・・・確か川沿いのあそこに笹や竹林があったな」と。川で涼みついでに、笹を大地に返してこよう。

図鑑でも持って。
Current Moon
CURRENT MOON
プロフィール

Coo

Author:Coo
森のある暮らしを綴ったフォトエッセイ。 裏高尾、筑波山を経て、現在 京都・比叡山にて。 森の事、野草や薬草のこと、森料理、日々のあれこれなど。 森の風があなたのもとにも届きます様に。

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